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当り矢金八捕物帖 千里の虎 : ウィキペディア日本語版 | 当り矢金八捕物帖 千里の虎[あたりやきんぱちとりものちょう せんりのとら]
『當り矢金八捕物帖 千里の虎』(あたりやきんぱちとりものちょう せんりのとら)は、1950年(昭和25年)製作・公開、中川信夫監督による日本の長篇劇映画である〔''当り矢金八捕物帖 千里の虎''、日本映画データベース、2012年4月18日閲覧。〕。高村正次の製作会社新光映画が製作、現在の東映の前身の配給会社東京映画配給が配給した〔〔''當り矢金八捕物帖 千里の虎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年4月18日閲覧。〕。 == 略歴・概要 == マキノ雅弘の姉牧野冨榮の夫・高村正次の製作会社「新光映画」は、マキノ芸能社の活動を停止したマキノ真三、その妻で女優の宮城千賀子夫妻が関わって、1949年(昭和24年)、並木鏡太郎の映画復帰第1作『右門捕物帖 謎の八十八夜』(配給東宝)を製作した会社である〔『映画渡世 地の巻』、p.264.〕〔右門捕物帖 謎の八十八夜 、日本映画データベース、2012年4月18日閲覧。〕。本作は、同作に引き続き、嵐寛寿郎・宮城千賀子の主演コンビで製作されたものである〔〔。 製作当時、監督の中川は新東宝に所属しており、撮影の河崎喜久三も同様であった。キネマ旬報映画データベースには「東横映画」が製作会社として記録されており〔''千里の虎''、キネマ旬報映画データベース、2012年4月18日閲覧。〕、これは誤りではあるが、セット撮影は東横映画のスタジオ(現在の東映京都撮影所)が使用された。 2005年(平成17年)、東京国立近代美術館フィルムセンターは、同作を発掘・所蔵していたプラネット映画資料図書館から35mmフィルムのプリントを購入し、これを収蔵した〔〔平成17年度 独立行政法人国立美術館 事業実績統計表 、国立美術館、2012年4月18日閲覧。〕。同センターは、同時期に、同図書館からは、本作と同じ東京映画配給が配給した『海魔陸を行く』(監督伊賀山正徳、製作ラジオ映画、1950年)も購入している〔。
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